ザグレブ(Zagreb)

〜900年の歴史をもつクロアチアの首都〜
最初の独立国家クロアチア王国が建国されたのは、10世紀初頭のことである。
ザグレブがクロアチアの首都として初めて公文書に記されたのは1094年とされている。

クロアチアは1102年から第一次世界大戦の間、ハンガリー王国と、
後のオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下におかれていたが、
ナポレオンの登場とハプスブルク家の没落により、徐々に独立気運が高まった。

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊すると、
1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の王国」が建国されたが、
この王国は1929年には、セルビア人主導の「ユーゴスラヴィア王国」へと改称されてしまう。

1939年にチェコスロヴァキアが侵略されると、ユーゴスラヴィアはドイツとイタリア側についた。
1941年、ナチス・ドイツは傀儡政権である「独立国家クロアチア」をつくったが、
チトー率いるパルチザン部隊が、第二次世界大戦が終結するまで抵抗し続けた。

第二次世界大戦後、ソ連はソ連式の社会主義を導入させようとしたが、
ユーゴスラヴィアは、チトーの指導のもとこれに抵抗し、独自の汎スラヴ主義にもとづく国家を形成した。

ユーゴスラヴィア連邦の要であったチトー大統領が、1980年に死亡すると、民族運動が活発になる。
1990年の選挙で圧勝したクロアチア民主連盟は、国民投票での支持を得て
1991年6月に独立宣言を発表したが、旧ユーゴスラヴィア連邦軍とセルビア人が
クロアチアに対する攻撃を開始し、1992年まで独立戦争が続いた。

1992年1月15日、クロアチアはクロアチア協和国として、正式に独立が認められた。
ついに900年越しの希望がかない、クロアチアは国家としての独立を獲得し、
それに伴い、ザグレブは世界に承認された独立国家クロアチアの首都となった。
ザグレブ中央駅(クロアチア) トミスラフ広場(ザグレブ・クロアチア)
ザグレブ中央駅
レンガ造りの駅舎を出ると、写真右のトミスラフ広場が
目の前に広がっている。
広場に沿ってまっすぐ歩けば、
つきあたりはイェラチッチ広場である。
駅周辺の地下は、ショッピング・アーケードがあり、
多くの買物客でにぎわっている。
トミスラフ広場
青々とした芝生のなかに、
クロアチア初代の国王トミスラフの像が建っている。

(写真後方の黄色い建物はパビリオンという展示場)
ザグレブ(クロアチア) ザグレブ(クロアチア)
ザグレブのメイン移動手段はトラム。
(写真はイリッツァ通り。イェラチッチ広場のすぐそば)
1890年に開通した全長60メートルのケーブルカー。
イリッツァ通りと山の手を結んでいる。
ザグレブ(クロアチア) 聖マルコ教会(ザグレブ・クロアチア)
1895年に建てられたクロアチア国立劇場
マリア・テレジア・イエローが
芝生と青空に美しく映える。
屋根のタイルが美しい聖マルコ教会
左側はクロアチア、ダルマチア、スロベニアの紋章。
右側はザグレブ市の紋章。
ザグレブ(クロアチア) ザグレブ(クロアチア)
13〜18世紀にかけて建てられた聖ステファン大聖堂
ネオゴシック様式の高い尖塔は、
ザグレブのシンボルとなっている。
大聖堂の前に広がるドラッツ市場(青果市場)。
「ザグレブの胃袋」と呼ばれ、
生鮮食品や衣類などの屋台が並んでいる。
ザグレブ(クロアチア) ザグレブ(クロアチア)
聖マルコ教会そばのナイーヴアート美術館
クロアチアでは、ガラスに描く
素朴画(ナイーブアート)が盛んである。
巨匠イワン・ラブジン(宝塚劇場の緞帳をデザインした)
の作品などを所蔵。
ザグレブの街のはずれにあるミロゴイ墓地
約28万人が眠る、ヨーロッパで最も美しい墓地。
設計はヘルマン・ボーレ。



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