ドブロブニク(Dubrovnik) 〜アドリア海の真珠〜 |
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「アドリア海の真珠」と讃えられるドブロブニクは、 アドリア海南部に位置する美しい町である。 アドリア海東岸最強の独立国家であった 「ドブロブニク共和国」は15〜16世紀に最盛期を迎え、 西岸のヴェネツィアと並ぶ貿易都市として栄えた。 |
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町はアドリア海に突き出した旧市街と、スルディ山の裾野に広がる新市街からなっている。 1979年に世界遺産に登録されたドブロブニクの旧市街は、堅牢な城壁に囲まれている。 オレンジ色の瓦屋根の連なる美しい町並みは、1667年の大地震で壊滅的な被害を受けた。 また、1991年からのクロアチア独立戦争の際には、 旧ユーゴスラヴィア連合軍とセルビア政府軍の攻撃により、旧市街もかなりの被害を受けた。 そのため、町は廃墟と化し一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に挙げられていたが、 終戦後、修復が進み、1994年に改めて世界遺産に登録された。 |
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城壁の長さは1925m。 幅は約3〜6m、高さは最も高いところで25mにもなる。 現在では、城壁の上は遊歩道になっており、 約1時間で一周することができる。(有料) 城壁に沿って、旧市街の入口となる4つの門がある。 ピレ門、プロチェ門、プジェ門、ポンテ門である。 城壁の建設は8世紀から始められた。 オスマントルコが勢力を拡大した15世紀には、 改修工事が何度も行われ、城壁と要塞の強化を図った。 また16世紀にはヴェネチア海軍の襲来に備えて、 港に面したレヴェリン要塞を新設した。 写真の背後の山は、標高412mのスルディ山である。 かつては、ケーブルカーで山頂まで登ることができ、 旧市街を一望できるスポットして人気があったが、 内戦時にケーブルカーが破壊されてしまった。 |
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城壁からの眺望。 オレンジ色の瓦屋根が日に映えて美しいが、これは大部分が内戦後に葺きなおしたものである。 内戦時に多くの家々が破壊されたが(写真右)、今では往時の様子をほぼ取り戻している。 正面の島はロクロム島。島の反対側は、ヌーディスト・ビーチになっている。 |
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西側のピレ門は、14〜16世紀にかけて築かれた。 海からだけでなく陸からの攻撃も撃退できるよう、 防備に工夫がなされれている。 半円形の門は、敵の侵入を防ぐために二重の構造で、 門前の堀には石造りの跳ね橋がかけられている。 |
ピレ門をくぐると、目抜き通りのプラッツァ通りである。 13世紀末に水路を埋めて造られたもので、 ピレ門からスポンザ宮殿のあるルジャ広場まで、 東西におよそ200mのびている。 |
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オノフリオの大噴水は、 1438年に水道施設として造られたもので、 現在でも天然の泉が湧き出している。 |
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フランチェスコ会修道院は、 14〜15世紀にかけて建てられたが、 1667年にドブロブニクを襲った大地震により、 壊滅的被害をうけた。 建物の大部分は、地震後に再建されたものだが、 中庭は14世紀のまま残っている。 (写真上は、昔のドブロブニクの様子) また、1317年に開業した ヨーロッパでも3番目に古い薬局がある。 |
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聖母大聖堂は、1192年に十字軍遠征時にドブロブニク沖のロクロム島付近で遭難したものの、 一命をとりとめた英国王リチャードにより建造が始まる、との記録があるという。 建設当初はロマネスク様式であったが、大地震の後、バロック様式で再建された。 主祭壇上の絵画は、15世紀に描かれたティツィアーノの「マリア被昇天」である。 また、大聖堂内には、それぞれ持ち主の異なる3つの鍵がないと開けられない宝物館があり、 金銀の聖遺物箱や宝物類が多数収蔵されている。 |
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市庁舎の隣に位置する、総領の館。 総領は50歳以上の貴族が、1ヶ月交代制で任じられた。これは、共和国を保つための制度である。 在位中は、館から一歩も出ることができなかったとか。 写真右は、2階へ向かう階段の手すり部分。手すりを握る大きな手には、ちゃんと爪まである・・・ |
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石段の続く路地裏。 洗濯物が風に揺れる家々の間の小道にも カフェやレストランが並んでいる。 |
ガス灯のともる夜の旧市街。 石造りの建物や石畳は、 光をやわらかく抱いているよう。 |
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城壁の上から見下ろしたアドリア海。 透明度が高いので、底まで見える。 |
旧市街すぐそばのビーチ。 | |