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旧摂津国武庫郡に属し,地名は現在西宮市社家町に鎮座する西宮神社(戎(えびす)社。
通称西宮えびす)にちなむ。
西宮の名は,1119年(元永2)9月,源師時が広田社に参詣したときの《長秋記》の
記事に〈西宮社〉に奉幣したことがみえ,また藤原頼長の《台記(たいき)》の
康治元年(1142)正月19日条に,広田社の内と思われる〈西宮宝殿〉が記されている
のが古い史料で,もと武庫郡の式内社広田神社の摂社と考えられる。
《仲資王記》の建久5年(1194)7月18日条によると,広田社には〈末社戎宮〉があり, また元久元年(1204)8月10日条に同社の〈戎三郎社〉がみえるが,鎌倉時代以降, 福徳神・商業神としての〈戎神〉の信仰が盛んになるにつれて,この戎社が広田社 から離れて発展し,〈西宮のえびす三郎殿〉として上下の信仰を集め, 《伊呂波字類抄》や《覧中抄》では,広田社そのものが〈西宮〉と呼ばれるに至る。 鎌倉時代,西宮の地には広田社に属して海商をいとなむ〈廻船人〉や,漁民である 〈海浜供祭人(ぐさいにん)〉がおり,西宮浜を基地にして活躍した。 またここは摂津の二大港湾である兵庫と河尻を結ぶ道に,京都からの山陽道が 合流する交通の要所だったので,戎社の敷地内に市場が設けられ,そこが〈 西宮最中〉とされた。戎社の祭礼の日などにはここに市が立ち,近隣の浜崎荘 春日供菜神人などの魚商人らが集まってきて,イワシその他の魚貝を売りさばき, 市を管理する広田社は,それら魚貝商人から1人1荷別3文の市場税を徴収していた という。 こうして中世の西宮は,広田社の本所,神梢伯白川家の保護のもとに,戎社の 門前町・市町,山陽道の宿駅,内海航路の港町として繁栄した。 《海東諸国紀》によると,1468年(応仁2)のころ,摂津国守護細川氏の守護代の 一族とみられる長塩備中守吉光という者が〈西宮津〉を基地にして,李氏朝鮮と 通交したことが知られる。 近世には戎社を西端として東西方向に町場が開け,西国街道(山崎街道)は町の 東端で大坂からの中国街道(山陽道)と合流して町場に入った。 西宮は西国街道の宿場町でもあった。 この〈町方〉に加えて17世紀後期からは酒造地,港町としての発展があって, 町方の南の砂浜に海岸に向けて〈浜方〉の形成が進んだ。釘貫(くぎぬき), 中之,鞍懸(くらかけ),久保,石才(在)(いつさい),東之町などの往還筋の 町方に対して,浜ノ町,鞍懸浜,久保浜,石才浜,東ノ浜からなる浜方5町が 生まれたのである。幕末には町方15町,浜方5町の町場となった。 ここでは,伊丹,池田にやや遅れて寛永年間(1624‐44)雑古屋文右衛門に よって酒の江戸積みが始まったと伝えられるが,延宝期(1673‐81)には 酒造業は61蔵を数え,1724年(享保9)には82軒に上ってついに伊丹,池田を 抜いて江戸積酒造業の先頭に立った。 生産した酒は初め伝法(現,大阪市),大坂を経て江戸積みされていたが, 1704年(宝永1)からは直積みが開始され,08年には江戸酒積問屋も発足し ている。 浜方は酒のほか干陛(ほしか)や米,沿岸魚貝類を集散する港町としても 栄えた。 1617年(元和3)以来町は尼崎藩領で陣屋がおかれていた。 尼崎,西宮,兵庫の3町の経済力に強く依存した同藩は,とくに西宮町人の 資力に期待し,初期の藩札貞享元年札(1684)の発行にはもっぱら西宮町人を 札元として発行しているほどである。 18世紀後半には裁地方および町の南東に接する今津村にいわゆる裁三郷酒造業の 台頭があり,西宮はこれら新酒造地帯の追込みをうけながらも繁栄を続ける (1819年(文政2)以降裁三郷は五郷に発展するが,西宮が裁五郷のうちの一郷と なるのは85年である)。幕府はこの兵庫・裁・西宮地方の繁栄に注目し,1769年 (明和6)この地域一帯を幕府領に収公した。以後西宮は大坂町奉行の支配下に入り, 勤番所がおかれて幕末に至る。 1769年の9778人を最高として,人口は近世後期には8000人前後を保った。 |
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